昨日はとても感じることが多かったから、また更新。
教員会に出て、思ったこと。
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アルバイトしている塾では、2年前まで、1年間、中学1年生の授業を持たせてもらってた。
とはいっても、家族がひとりいなくなった直後になにかを詰め込むようにして始めたアルバイトだった。
なにかやってないと、必死でやってないと、崩れそう。
なにもやってないと、これでいいのか、と焦りそうな気がしてた。
学校に行って帰ってきて、塾の授業準備して、学童のアルバイト行って、子ども会の企画やって、機関誌の記事書いて、家事やって・・・なんてやってたら、体の容量が足りない。
でも、なんでこなせてたのか、っていえば、ぎりぎりのところでやってたからだったんじゃないかなー
2年前の中学一年生の授業考えるのは、負担が重くて重くて。
授業案の提出、クラスニュース書いて、授業をもう一人の子と打ち合わせて。
専従の人のチェックを受けて、またやり直し。
学校見学に行って、そのクラスの子たちの様子を見にいく。
そのレポートを書く、云々。
際限がない。
わたしの場合、いつだって授業考えたりまとめたりするのはぎりぎりで、
思考パターンが、納得するまで動かないところがあるから、思考を帳尻合わせたり強引に持っていったりすることがどうしてもできなくて、時間内に終わらせる、ということが苦手だった。
それに、やりたくない・・・ってどっかで思ってたのもあった。
大学で勉強すること、授業受けることは面白いことだし、せっかく大学という知の宝庫に通っているのに、学校の勉強がおろそかになっていくのが嫌だった。
(と言いながら、遅刻ばかりだったので、説得力にはやや欠けますが。)
人に教える前に自分で学ぶこと、いっぱある。
教えるのは、もっと先でもいいじゃないか。
アルバイトでなんでこんなに時間割かないといけないんだろう、って、思ってた。
けど、引き受けた手前、投げ出せない。
教員会では新人教員の人の模擬授業、というものがある。
模擬授業という名の、公開処刑、だと、わたしは思ってた。
自分のうまくもない拙い授業をベテランの教員みんなが見ている前でして、そこから評価を受ける。
緊張しいだから、ほぐれないままだ授業暴走する。
どうしよう・・・ってなっちゃう。
からまわってしまう。
だから、さ、
うまーくほぐれたときには、解放されて考えさせるような授業ができるんだけど、
笑顔がよかったとか、一生懸命さが伝わってきた、とか、
そんなん誰にでもいえんじゃん!くらいの授業しかできなかったりして、
もー、いいよ、嫌だ、批判なんて聞きたくない!って思ってた。
模擬授業してみて、晒されることによって、
相互評価する人たちに意識を刺激する。
切磋琢磨して、授業の質を上げていく。
頭ではわかってるんだけどさ。
模擬授業の対象にされやすくて、それ、1年間で3回もやってさ。
またわたしかー、なんでわたしばっかりなんだ、って思ってさ。
やりたくないよ、もう。
いやだいやだいやだ、って毎回やるたびに思ってた。
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それから、1年間中学1年生を見て、塾を少し離れて、教育実習に行った。
教育実習では、恩師の先生のもとで授業できた、ということもあったし、
授業準備の時間がたっぷりと与えられていたから、しっかりと準備できた。
だから、わたしもリラックスしたような授業ができた。
学校に流れる空気、文化を、知っていたからかな。
逆にいうと、塾では、自分の知らない文化の中で授業をやらなければいけなくて
自分ですらまだ吸収しきれていない文化を伝えなければならない場面が多々あった。
でも教育実習行って、自分にも、自分の経験を交えながらのそういう授業できるんだな、って思った。
だから、少し自信取り戻した。
リラックスできたし、伝えられたものも、あったと思う。
けど、塾で授業はもう持ちたくなくて、一年間離れてた。
塾から離れている間には、大学院の受験のために、毎日毎日図書館に行って、勉強して、帰る、っていう日が続いてた。
お母さんがいなくなってから、初めて自分の時間を持てたような、感じだった。
夏休みにお母さんが残したものの整理も大分進めたし自分の勉強もした。
アルバイトのことを気にすることも無く、自分の論文と遺品整理のことだけを気にしていればよくて、わりに料理作るの好きなんだけど、料理する時間も取れるようになってきて
やっと詰め込みすぎることなく、自分のペースで回せるようになってきた。
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まあ、そんな1年間を経て、塾に帰ってきた。
昨日は戻ってきてからの初めての教員会だった。
今回は、専従の教員の一番若い人が、授業をやってた。
例の、超圧迫模擬授業。
わたしもやったなあ、あれ、嫌なんだよなあ、って思いながら見てた。
最初とても緊張してる専従の人の英語の授業受けた。
けどさすが、専従の人で、経験と度胸が違う。
だんだんほぐれてきて、楽しく授業の時間が過ぎた。
あとの評価の時間では。
やはりいろんな意見が飛び交った。
導入はすごく面白い、恋愛の話は外さない、全員に当ててよかった。
けれども、トーンが一定、聞いてて勢いで持って行こうとするから疲れる、恋愛の話をネタとして扱うのはどこまでが許容範囲なのか、とか。
わたし、そういうの聞きながら、自分がやってたときとは全然別のこと考えてた。
一人の授業を叩き台にして意見を言うことによって、その人の考え、重点を置いていることが、見えてくる。
なんでそういう研修が成り立つのかと言えば、
塾には確信があるから。
こういう研修を経て、教員が成長していく、相互評価に晒されることによって、授業の質が向上していく。
その根底には、個人的な感情や嫌悪感とか、簡単に言うとやりたくない気持ち、逃避したい気持ちを超えたところに、教育への熱意や土台がある。
そして、その土台が揺るがないから、一人の人の授業をたたき台にしてもなお、その人自身のプライドや尊厳を貶めることなく、受け止めようとする。
いや、実際傷つくんだけど。
現場の世界ってもっとシビアだ。
生徒にそっぽ向かれたら、なに言っても響かないし、生徒にはさ、話を聞かない権利もある。
ある意味で、教員会の模擬授業よりもずっと厳しい世界。
そういう中でやっていかなければならない。
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昨日は、4月の初めの教員会だったから、模擬授業の前に、塾に流れる理念についての学習会があった。
それで、教育基本法や、ユネスコの学習権宣言について学んだ。
こういう戦後の教育理念を土台にして、塾の理念を作っている、その内容について学んだ。
わたし、前から教育学部の言葉って、あまり好きじゃなくて。
きれいごとばっかりな文字が羅列されているように感じてた。
だから、大学進学の時には、教育学部じゃなくて、文学部に行きたかった。
教育学んでも、教育者ってひとつの型にはまるみたいな感じが嫌だったし、それは行くべき人が進めばいい、って思ってた。
けど、昨日、教育基本法や、ユネスコの学習宣言などに触れて、妙に納得した。
教育には、目的がある。
明確な目的がある。
06年度
教育基本法
「教育の目的」第一条
教育は、人格の完成をめざし、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなわなければならない
人格の完成とは、人間が人間らしくあることだと、解釈すればいいらしい。
教育によって、わたしは今読んだり書いたり考えたりすることができている。
そしてこちらは、ユネスコの学習権宣言。
格調高い文章。
これは、教育宣言ではなく、学習宣言、というところがミソ。
学習することは、基本的人権の一つだと、ユネスコのこの宣言は主張してる。
以下、抜粋。
「学習権とは
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり
あらゆる教育の手立てを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。」
「学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。
もし、世界の人々が、食料の生産やその他の基本的な人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたなければならない。
もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするなら、彼らは学習権をもたなければならない。
もし、わたしたちが戦争を避けようとするなら、平和に生きることを学び、お互いに理解し合うことを学ばねばならない。
学習こそは、キーワードである。
端的に言えば、このように学習権を理解することは、今日の人類にとって決定的に有用な諸問題を解決するために、わたしたちがなしうる最善の貢献の一つなのである」
これらの文章は、しかるべき議論や討論の末に導き出されたような結晶のような文面なんだ、と思った。だから特にユネスコの文章はとても美しい。
こんな文章は自分で考えようと思っても、書けない。
こういう理念を土台にして、塾が日々実践を重ねている。
学習会と模擬授業を通して、すごく漠然とだけど、今までとは違うように教育について考えてた。
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理想の追求のためには、日々学び続けたり、日々磨きをかけていかなければならない。
最初から漠然と教育があるのではない。
目指すべき理想に向かっての一つ一つの積み重ね、
たとえば会議があったりとか、模擬授業があったりとか、とてもとても大変なんだけど
そういう過程を踏んで行かないと、理想と現実はかけ離れたものになっていってしまう。
そして、教育はその場限りのものではなくて、
大げさにいえばその人の深部に深く根を下ろすこともある。
考えてみると、その影響力は計り知れないものがある。
専従の人の模擬授業、そのやりたくなさ、惨めさとか、批評を正面から受け止める姿勢とか、そういうものはわたしが模擬授業やってなければ、きっと昨日みたいには感じられなかった。
いざ現場に立ったら、もう誰も訂正してくれない。
自分の中に常に批判軸をもっていないと、教室の中じゃ嘘も甘えも手抜きも、いくらでもできてしまう。
そういうときにさ
自分が模擬授業で言われたこと、専従の人の模擬授業見て思ったこととか、思い出しながら
今度は言われなくても自分で自分の授業見て、磨きをかけていくしかない。
それは、褒められたいからやってる、っていうのではない。
知識や知性の伝授はそういう個人を超えたところにあって、
自分がその個人を超えたものと伝えるためには
やっぱり殻を突き破って、対象として自分の授業や頭の中の伝え方を観察できないことには
いつまで経っても個人のおしゃべりに過ぎない内容になってしまうんじゃないか、と思ったりして。
おしゃべりと、授業は違う。
そして、自分の知性がすべてだと思ったり
学問をわかったと思ったりしたら、そこで終わり。
もうその先、教室の外には出られない。
自分を超えたところに知性があるとしたら、そしてそれは一人では導き出せないのだとしたら
やっぱり相互に意見を交換することとか、批判することとか、受け止めることでしか、
新しいものは生み出していけない。
硬直したまま、終わったら、どんどん時代に置いていかれる。
変わらないためには、変わり続けなければならない。
などなど。
そんなことをぐしゃぐしゃと、考えた、教員会でした。
まとまりがないですが、では。